「故郷」とは「教養とは無縁の読み書き以前の精神」が形成される場所である。「周縁」の縁から「漂着」までの著者20年の軌跡。

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「故郷」とは「教養とは無縁の読み書き以前の精神」が形成される場所である。「周縁」の縁から「漂着」までの著者20年の軌跡。
- 関連ワード
- アイルランドから東北へ 周縁と漂着の詩学
- タイトル
- サブタイトル
- 周縁と漂着の詩学
- 著者・編者・訳者
- 佐藤亨著
- 発行年月日
- 2025年 6月 17日
- 定価
- 3,960円
- ISBN
- ISBN978-4-7948-1287-2 C0036
- 判型
- 四六判上製
- 頁数
- 320ページ
著者・編者・訳者紹介
著者-佐藤亨(さとう・とおる)
1958年生まれ。青山学院大学教授。専門はアイルランド研究・現代詩研究。
主な著書に『異邦のふるさと「アイルランド」』(新評論)、『北アイルランドとミューラル』、『北アイルランドのインターフェイス』、『北アイルランドを目撃する』(水声社)がある。
1958年生まれ。青山学院大学教授。専門はアイルランド研究・現代詩研究。
主な著書に『異邦のふるさと「アイルランド」』(新評論)、『北アイルランドとミューラル』、『北アイルランドのインターフェイス』、『北アイルランドを目撃する』(水声社)がある。
内容
本書は拙著『異邦のふるさと「アイルランド」─国境を越えて』(2005年)の続編である。前著出版以来、「アイルランドと東北をコンセプトとした本を」という目標のもと、書き続けてきた。できあがったものは「アイルランド」と「東北」にかぎったものではない。ほかに、民族紛争〔旧ユーゴスラヴィア内戦〕の傷跡が残るサラエヴォ〔ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都〕、キリスト教など大きな宗教によって脇に押しやられたペイガニズム(異教信仰)や妖精、あるいは植民地支配によって生じる言語の優越のなかで変更された地名の問題など、端へ、辺りへ、下へ、と追いやられた「周縁」の世界を扱った。
構成は以下の通りである。第1章「東北へ、東北から」、第2章「北アイルランド詩人の地名詩─シェイマス・ヒーニーの『アナホーリッシュ』を読む」、第3章「サラエヴォ、ベルファスト、ヨーロッパ」〔ベルファストは北アイルランド紛争の中心都市〕、第4章「『さらわれっ子』の想像力─アイルランドと東北」、第5章「ペイガンをめぐって─周縁文化についての一考察」、第6章「在日コリアンの詩の風景」、第7章「植民地と故郷─清岡卓行、三木卓、後藤明生」。
「周縁」とともに副題の一部に選んだのが「漂着」である。この言葉は第7章で引用した後藤明生の小説に由来する。敗戦とともに朝鮮半島から九州に引揚げ、その後上京して東京の大学に進学し、家族をもち、度かさなる抽選を経てやっと郊外の公営団地に入居できた主人公の感慨のなかに見られる。
わたしはこの主人公と別な人生を送ってきたが、「漂着」の思いを共有している。岩手から上京し、大学入学当初はアメリカ文学を志していたが、「自分探し」をしているうちにアイルランドと出会い、やがてそれをきっかけに故郷の東北、サラエヴォ、朝鮮半島、旧満州〔中国東北部〕に関心を抱くようになったからである。
わたしにとって東北とはなんであろうか。ヒーニーの言葉を借りるなら「本能の底荷(バラスト)」と言えるかもしれない。すなわち「教養とは無縁の読み書き以前の精神」が形成される場所である。
このたび『アイルランドから東北へ─周縁と漂着の詩学』を同じ出版社から、しかも、同じ編集者の力添えで出版できることは感慨深い。前著から20年が経つ。まさに本書に漂着した感がある。
(さとう・とおる)
構成は以下の通りである。第1章「東北へ、東北から」、第2章「北アイルランド詩人の地名詩─シェイマス・ヒーニーの『アナホーリッシュ』を読む」、第3章「サラエヴォ、ベルファスト、ヨーロッパ」〔ベルファストは北アイルランド紛争の中心都市〕、第4章「『さらわれっ子』の想像力─アイルランドと東北」、第5章「ペイガンをめぐって─周縁文化についての一考察」、第6章「在日コリアンの詩の風景」、第7章「植民地と故郷─清岡卓行、三木卓、後藤明生」。
「周縁」とともに副題の一部に選んだのが「漂着」である。この言葉は第7章で引用した後藤明生の小説に由来する。敗戦とともに朝鮮半島から九州に引揚げ、その後上京して東京の大学に進学し、家族をもち、度かさなる抽選を経てやっと郊外の公営団地に入居できた主人公の感慨のなかに見られる。
わたしはこの主人公と別な人生を送ってきたが、「漂着」の思いを共有している。岩手から上京し、大学入学当初はアメリカ文学を志していたが、「自分探し」をしているうちにアイルランドと出会い、やがてそれをきっかけに故郷の東北、サラエヴォ、朝鮮半島、旧満州〔中国東北部〕に関心を抱くようになったからである。
わたしにとって東北とはなんであろうか。ヒーニーの言葉を借りるなら「本能の底荷(バラスト)」と言えるかもしれない。すなわち「教養とは無縁の読み書き以前の精神」が形成される場所である。
このたび『アイルランドから東北へ─周縁と漂着の詩学』を同じ出版社から、しかも、同じ編集者の力添えで出版できることは感慨深い。前著から20年が経つ。まさに本書に漂着した感がある。
(さとう・とおる)