トークセッション |
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〈JUNKU 連続トークセッション〉
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2004年4月16日(金)18:30〜
マルク・クレポン
『文明の衝突という欺瞞』(新評論)をめぐって
文化批判と来るべき平和論
恐怖と敵意を作り出す文化=政治から
私たちはいかに抜け出すべきか
桑田禮彰(本書付論T)・白石嘉治(本書編訳)
| 2004年1月16日刊行 |
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9・11以降蔓延する
ハンチントン流文化資本主義の陥穽と
危機を鮮やかに創出 |
| 『文明の衝突という欺瞞』
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暴力の連鎖を断ちきる
永久平和論への回路 |
マルク・クレポン著/
白石嘉治 編訳
(付論○桑田禮彰/ 出口雅敏/M.クレポン) |
ISBN4-7948-0621-3
四六上製 228頁/ 定価1995円(税込) |
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| ●トークセッションの要旨 |
●戦争状態がなし崩しに承認されている。われわれの無力感はどこから来るのだろうか? デリダ派第三世代の哲学者M.クレポンは、ハンチントンの「文明の衝突」論を批判する。クレポンの議論を通じて、世界の喪失に抗する「言葉」と、それが「約束」する地平を考えてみたい。
なぜイラク派兵が承認されるのだろうか? われわれはいかなる現実を生き、それはどのような想像力に支えられているのだろうか?
ハンチントンの説く「文明の衝突」論は文化の差異を絶対視し、米国のイラク侵略を暗黙に正当化する。だが、クレポンによれば、「文明の衝突」論とは、グロテスクな人種差別に根差した文化主義であり、恐怖と敵意を作り出す詐術にほかならない。われわれの現実と想像力は、そうした文化=政治にとらわれているのではないか?
「文明の衝突」論のみならず、日本における文化主義的な言説の執拗な回帰もまた、イラク派兵が承認される状況と無関係ではないだろう。政治的な対米従属を「癒す」ために、ことさら日本文化の特殊性が言い立てられるのではないか?
われわれに必要なのは文化批判であり、文化による政治の悪しき回避を解きほぐす試みである。クレポンのハンチントン批判を出発点として、今日のグローバル化した暴力の承認に対峙する平和論の地平について考えてみたい。
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| ●講師紹介 |
◆桑田禮彰(くわた・のりあき)
1949年生れ。駒澤大学教授。『フーコーの系譜学』(講談社)、『来るべき〈民主主義〉』(三浦信孝編、藤原書店)、ジャンケレヴィッチ『アンリ・ベルクソン』(共訳、新評論)、マシュレ『ヘーゲルかスピノザか』(共訳、新評論)、ブルデュー『ハイデガーの政治的存在論』(藤原書店)ほか。
◆白石嘉治(しらいし・よしはる)
1961年生れ。上智大学非常勤。『啓蒙のユートピア I』(共訳、野沢協・上田祐次監修、法政大学出版局)、『ラシーヌ劇の神話力』(小田桐光隆編、SUP上智大学)、ドリュモー『父親の歴史、父性の歴史』(共訳、新評論近刊)ほか。
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| 4階喫茶にて。入場料1,000円(税込)ドリンクつき |
| 定 員/40名 |
ジュンク堂書店 池袋本店
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●『文明の衝突という欺瞞』要旨
9月11日のテロ攻撃以来、ハンチントンの「文明の衝突」論が再浮上する。それは、米国の一連の武力報復を暗黙のうちに正当化する。この状況に対して、著者は「文明の衝突」論が文化本質主義に基づく議論であることを明快に説く。また文化本質主義を前提するかぎり、われわれの世界が「恐怖と敵を作り出す文化」に蝕まれていくと警鐘を鳴らす。
これまでも学術的なレヴェルでは、ハンチントンの議論の難点が数多く指摘されてきた。だが、クレポン氏のように、状況に介入しつつ理論的な批判を行う試みはなかった。さらにクレポン氏が日本語版のために書き下ろした付論「文化と翻訳」では、ベンヤミンの翻訳論を出発点としつつ、カントの永遠平和論への回路が探られる。それは、同じく付論に収録された桑田禮彰氏「法・歴史・政治」、出口雅敏氏「文化の力の追求」の論考とともに、今後いっそうの困難が予想される状況への確かな視座を提供するはずである。
●マルク・クレポン(Marc
Crepon)氏略歴
1962年生まれ。フランス国立科学研究所(CNRS)研究員。
専門領域は哲学。とりわけ言語とナショナリズムの関係に焦点をあてた著作活動を展開している。
おもな著著として『精神の地理学』(1996)、『言語の悪しき霊』(2000)、
『言葉の約束』(2001)がある。
●文化をめぐる言説のインフレーションに抗して 編訳者・白石嘉治
小泉とブッシュが首脳会談で「グレート・リーダー」「ストロング・リーダー」と呼び合う。自衛隊のイラク派遣を目前に、いわば剥き出しの愚かさが露呈している。石原についても同様である。彼は排ガスのように失言を撒き散らしながら、アニメ、カジノ、監視カメラに執着する。これらに対する追認と忍従。われわれはどこかで、批判の回路を見失ってしまったのではないか?
クレポンの『文明の衝突という欺瞞』が指し示しているのは、こうした状況に対する批判の糸口である。九・一一以後に再浮上したハンチントンの「文明の衝突」論によるかぎり、「西洋」と「イスラム」の戦争は避けられない。米国の中東地域への愚行がこうして正当化される。それに対して、クレポンは「文明の衝突」論が前提している文化本質主義を批判する。文化本質主義とは、文化的特徴を自然の法則のように変わらないとみなす立場である。そこには、異質なものを排除する暴力、「偽装された人種主義」が潜んでいるのである。
われわれにとって、こうしたクレポンの批判の持つ意味は貴重である。なぜなら、日本文化(ないし日本人)の独自性を強調する本質主義的な言説が、政治的な対米従属をいわば癒すために要請されているともいえるからである。だからこそ、小泉がブッシュに迎合すればするほど、人々は「文化人」石原の人種主義的な言動を欲望するのだろう。クレポンの議論は、この悪循環を断ち切る手掛かりとなるはずである。
さらにクレポンは、カントの「永久平和論」を支持し、そのハンチントン批判を「人類の単一性」という語で結ぶ。この素朴さにたじろぐべきではない。カントの「永久平和論」と同様、クレポンの議論は見掛け以上にしたたかである。そのことは、クレポンが日本語版に寄せた論考「文化と翻訳」からも窺える。彼はそこでベンヤミンの翻訳論を援用しつつ、文化における普遍的なものを措定する可能性を語る。「人類の単一性」への信頼とは、文化をめぐる言説のインフレーションに抗して、われわれが『文明の衝突という欺瞞』を手掛かりに思考すべきもう一つのことである。
(しらいし・よしはる 上智大学兼任講師) |
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